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今回のテーマ:日本国憲法は実効性を持たれてきたか?(その3)(同著51頁) 【解読レジュメ】 (0)前提 法律の世界では、憲法がチャンピオン しかし、日本社会がそうなっているかどうかは別問題 9条を待つまでもなく、実際の日本社会は、 日本国憲法が基本法でありかつ最高法規であったとは言いがたい・・・ (1)国会は憲法を遵守してきたか(前々回の記事)→NO (2)行政府は憲法を遵守してきたか(前回の記事)→NO (3)裁判所は憲法を遵守してきたか ◎裁判所さえも、日本国憲法とは別個の価値にとらわれてきた感がある。 たとえば、 憲法20条が国家権力と宗教との癒着を禁じ、政教分離を定めているにもかかわらず、津市が主催して宗教行事を行なったにもかかわらず、 @目的が宗教的な意義を持ってなかった、 A特定の宗教を助長するような大きな効果はなかった、 として、いわゆる「目的効果基準」を採用し、合憲判決を出している(津地鎮祭訴訟最判昭和52年7月31日判決)。 ↓ ただし、解釈には常に対立があるのであり、このような憲法解釈が間違いだというのではない。問題は、最高裁の述べた次の理論である。 ↓ 平均的日本人は「宗教意識の雑居性」の中にあり、特定宗教に鈍感な多数人の目で、政教分離原則違反かどうかの判断を行なうべし、と。 ↓ 憲法が保障する人権規定は、国会の多数決をもってしても侵害し得ないものである。だからこそ憲法に規定するのであり、そうでなければたんに国会の多数決にまかせておけばよういのである。 すなわち、人権保障は、少数者の人権こそを、その対象とする面がある。 ↓ しかし、前記最高裁は、宗教的に敏感な少数者の目で問題を見ていない。むしろ自覚的に多数者の目で見ている。「そんなに騒ぐほどのことではない・・・」と。 こうした判断はある意味「常識的」なのかもしれない。だがしかし、憲法が掲げる普遍的な価値は、もっと人間の本性、とくに多数者の本性に懐疑的なのである。 ◎多数派が自分達の価値をごり押しする、しかもそれを少数派にとってもいいことなのだと信じて・・・。 ↓ こういう価値観の多様性に対する無知と不寛容は、憲法の人権保障が最も警戒する事柄なのである。 ↓ 以上のとおり、わが国の最高裁は、日本国憲法の人権保障の根底にある個人主義的価値観とは別個の「日本社会の常識」とでもいうべき価値を追及してきたといえる。 (4)まとめ 以上のとおり、国会・行政機関のみならず司法権までが、日本国憲法から乖離している。 ↓ こうした事態は、この国の国家機関が「違憲をものともしないけしからん体質」を持っているのだと切って捨てるだけでは説明できないように思われる。 ↓ この乖離現象の原因究明が必要となる。 【澤田コメント】 まことに残念というか、立場によっては当たり前というか、結局、棟居教授の分析によれば、三権のすべてが、日本国憲法とは異なる別個の価値を追い求めているということになる。 それにしても、私自身が棟居教授に傾倒する理由は、今回のレジュメにも表れているが、多数決を最終手段とする民主主義よりも、個人主義を徹底して重視する点である(下記URL参照)。 http://sawasawa-kum.at.webry.info/200612/article_1.html 棟居教授は、国家権力と日本国憲法の乖離現象の原因究明のため、「見えない憲法」という仮説を立てる。このブログのタイトルの選定にも影響を及ぼしている仮説である。 次回以降、この仮説「見えない憲法」をご紹介していくことにしよう。 澤田章仁 |
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