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今回のテーマ:見えない憲法第3条/教育目標としての平準化(同著57頁) 【解読レジュメ】 「見えない憲法」の第4条には、 国家は国民を保護せよ と書いてあるはずである。 「国家の保護義務」論は、「見える憲法」のほうでも議論されている。 ↓ 国民は「自由権」の保護の救済を国家に求めることができ、国家は救済しなければならない義務を負うとする議論である。 ↓ この議論はこの国の「見えない憲法」のほうではむしろ当たり前であった。 この国では「自由で自己決定的な個人」が根付かず、 国家が国民を保護するのは空気がタダであるのと同様に当然だと考えられてきたのである。 ↓ このことは霞ヶ関の官僚支配を裏打ちする一因でもあった。 ↓ しかし、このノリは、規制緩和の波にさらされている。 個人は今、規制緩和によって国家というシェルターから放り出され、冷たい風に直接あたるという状況に置かれている。 【澤田コメント】 国家の保護義務論とは、社会権・受益権とは異なり、「自由権」を保護する義務を国家に負わせるものである。 この議論は、「個人はみな、か弱き子羊である」ということを前提としているように思える。あるいは個人は子羊のフリをしているのか? ともあれ、「見えない憲法」の4か条は、すべて出揃った。以下のとおりである。 第1条 日本の経済秩序は、社会公平や正義の実現といった特定の価値観をかぶせられた経済秩序(=社会経済秩序)である。 第2条 完全雇用を守れ。 第3条 個人の能力や人格は平準化・規格化されているほうが望ましい。 第4条 国家は国民を保護せよ。 棟居教授は言う。 近時、改憲論が盛んになりつつある。仮にも改憲を論じるのであれば、先ずは、その対象は「見えない憲法」におかれなければならない。 これまでのような本音=「見えない憲法」と、タテマエ=「見える憲法」の便宜的な使い分けを解消するための改憲が必要である。 と。 澤田個人の受け取り方であるが、 棟居教授は、おそらく、そのような視点に立たなければ、日本国憲法の「立憲主義」はいつまでたっても回復しない、と考えておられるように思える。 日本人のみならず、国際化した社会では外国人にとっても、憲法は、透明で「見える憲法」でなければ、立憲主義は名目化する。 「見えない憲法」を可視化した上で、これと「見える憲法」をどのように調整していくか?改憲論議には、そういったシナリオの検討が必要であろう。このような検討は、とりもなおさず「この国のかたち」をどう描くか、の議論である。 焦点の9条をどうするか以前に、この議論を先ずは進める必要があるように思える。 立憲主義の回復のために・・・ 次回以降、「見えない憲法」可視化のシナリオを紹介していくことにしよう。 (澤田章仁) |
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